Club SLAZY評 準備稿だったもの


はじめに
これは、Club SLAZYAnotherWorldFinal invitationの間に発表しようとして書きかけになっていたClub SLAZYの評論の下書きです。
しかしもうFinalは終わってしまったし、年末のライブを迎え撃つのみ。
今の段階でこの評論文をライブまでに完成させるのは無理ですが、言いたいことを書いてある文章ではあるので、極めて部分的で中途半端ではありますが、一旦公開することにしました。


「Club SLAZYとは何なのか」、というのは難しい問いかけで、作品によってテーマが違うため、答えはひとつではないと思う。
でも「Club SLAZYは何ではないのか」という問いかけに対しては、少なくとも一つは答えを返すことができるくらいまで絞り込めたと思う。
Club SLAZYは、勝ち負けの物語ではない。

Lazyになれるのは一握りのスターだけ、その中でも明確な序列がある、というのは、なるほど確かに一見順位を競い合っているように見えるのだけど、3rd invitationでは実際に店のLazyの座自体をめぐってNewJackたちまで巻き込んだ勝負が展開されているように見えるのだけど、最後まで見てみると、どの物語でも、主題はそこではないのである。むしろ、勝負の結果ではない何かが、これらの物語では大切なものとして語られているのだ。

この物語の登場人物、その中でもLazyとNewJackたちは、競争社会で生き続けなくてはいけない私たちそのものだ。私たちは全員が一番を目指さなくてもいいんだよ、というメッセージ。一番になりたい、一番をみんなで目指そうというのは、この社会の『建前』で、一番になれなくても、あるいは一番を目指さなくてもいいんじゃない、というのが私たちの『本音』。一番でなくても、何となくトップ集団の中にいられればいいんじゃない? というのは、スチャダラパーも言ってた(気がする)。

してみるとこの『建前』と『本音』の間を、一番行き来しているのが、「Mr.スレイジー」ことCoolBeansである。
Another WorldでDeepに「頭の中に小さい小人が一万人くらいいて」と評されていたのは、つまり、彼の中の建前と本音のせめぎ合いのことであるなあと、感心した。


続きは機会がありましたら、というか年末の大阪ライブを無事終え、長くたくさん考えている考察を吐き出す気持ちが湧いて来ましたら、またしたためようと思います。言いたいこと、語りたい事はまだいっぱいあるんです!